なんか諸々を考えていたらすごく切ない気持ちになったという部分だけインターネットの海に流させていただく なんだろうね 私はただみんなが幸せでいればいいなと思うよ(強欲) 人生って難しすぎる 自分の範囲で永遠であることを諦めて他者の観測に依存すれば、結局他者が永遠でないことに切なくなる人生なのだと思う 難しすぎるって〜
結局求めているのは永遠なんだと思う そんなものは手に入りやしないのにね 刹那を必死に生きることだけが人間に許されていて、全て通り過ぎるしかないのにね
これは日記である。らしい。続けばいいが。
なんか諸々を考えていたらすごく切ない気持ちになったという部分だけインターネットの海に流させていただく なんだろうね 私はただみんなが幸せでいればいいなと思うよ(強欲) 人生って難しすぎる 自分の範囲で永遠であることを諦めて他者の観測に依存すれば、結局他者が永遠でないことに切なくなる人生なのだと思う 難しすぎるって〜
結局求めているのは永遠なんだと思う そんなものは手に入りやしないのにね 刹那を必死に生きることだけが人間に許されていて、全て通り過ぎるしかないのにね
時の流れは早いもので。あっという間に日付は経っていき、九月ももう終わろうとしている。一年もそうやって終わっていくのだと思う。
過去よりも未来を、未来よりも現在を見ていけたらいいなと思う。今この瞬間を精一杯に楽しむことが、ある種宿命への反逆なのだと考えている部分がある。
思う。人が苦しいのは、苦しいと感じた方が生き延びやすかったからだと。だから楽しく生きていくということが、もっと先の未来に一石を投じることになったらいいなと。
過ぎていく時間の意味は、私自身で見つけていくほかない。きっと毎日が楽しい方が、そのこじつけがしやすいだろう。
朝起きて夜寝たい。しかしそれは難しい。夜には誘惑がある。私と楽しい時間を過ごしましょうと耳元で囁きかけてくる。あと気づいたら普通に日付回っている時がある。それが今。
こういう時はどう行動しようか普通に迷う。どう生きるべきなのか。いっそ徹夜するのもありだろうかと回らなくなった頭で考えてしまう。でもそういう時は結局どこかで寝落ちてしまうことを私は知っている。
いろんなものに対しての焦りはきっと生きてる限りある。しょうがないことだ。それでも抱きしめて生きていかなきゃいけないものだ。それでも焦りすぎて世界をひっくり返してしまわないでいてくれてありがとうと、そうやって朝にも夜にも自分にも感謝していけたらいいね。
メモを取るって大変だと思っていて。なんか、取っているうちに肝心なことを取り落としちゃう感覚がある。でもこれはメモを取っているからこそ知覚出来ていて、メモを取らなければもっともっと記憶から今この瞬間が抜け落ちているのだと思う。
己の喪失を自覚するのは怖い。人は失う痛みに弱い。それは数多の実験で示されてきたことで、人生でも痛感することで、せめて得る喜びと失う悲しみが同じ大きさなら良かったのになぁと思わずにはいられない。
メモを取る人は、失う恐怖を受容出来た人なのだとむしろ思う。私はメモを取るぞと意気込んでは手のひらサイズのメモ帳を買って、そして部屋の隅に置いたままになってしまう。そんなことを机横のメモ帳10冊セットを見ながら思った。
散歩ってすごく健康にいいらしい。効果を挙げればキリがないくらいだし、それに結びついて日光を浴びるのも自然を眺めるのも良い効果があるってくらいに健康がいい。
問題があるとすれば私に散歩をする気が起きないことくらいだ。習慣化が大事とはいうが、いかんせん荷物選びの段でくじけてしまう。
水はいるよね、財布はいるよね、一応折り畳み傘も持っていくか?とか考え始めたら終わりだ。そもそも水すら要らないのかもしれない。最低200円持ってさえおけば、自販機で買って帰れるのだから。ううしかし、散歩に200円? とか考え出すとやはり終わりだ。
散歩とはブラブラ歩くことを意味する。だというのに私はあまりにもきっかりこっきり歩こうとし過ぎているきらいがある。もう少し気を抜いて散歩ができればハードルも下がるだろう。
とはいえ、出来ないことを無理してやろうとするのもなんだか違うような気がしている。だから家でステッパーを踏むことを私の散歩と定義しようと思う。水なら後ろのテーブルにあるし、雨が降っても安心だから。
代替案に頼ってもいいし、ハードルは下げれるだけ下げてもいいのだ。そうやって気を抜いて、生きていっていいのだ。そう思う朝だった。
人間には調子が悪くなるときがある。それに加えて、調子を保つ方法はあっても改善する方法はないと言い切ってもいいくらいなので、何も考えず何も焦らず調子の悪さを満喫するのが正解なのだと感じている。
人体は不思議だ。何故調子が悪くなるように作られたのだろう。ずっと元気だったら言うことないのに。しかしずっと元気な遺伝子は生き残れなかったんだろう。結果的に調子が悪くなるのが合理なのかもしれない。
空を見上げる。嘘だ。外に出る気力もない日なので。天井を見上げる。そこには白い天井があって、ああ電気を点けられてえらいな、なんて漠然と思った。
調子が良い時に色んなものの余白を作っておきたいと思う。そしたら未来の調子が悪い自分が助かるはずで、そうでなくても誰かが助かるかもしれないから。
とはいえ努力というのは私にとって非常に苦手な行為でもある。頑張ったからといって必ずしも報われないのなら頑張らない方がお得ではないか、なんて斜に構えた倹約家の自分が顔を出す。それを別の面から捉えてみれば、『努力をギャンブルと捉えろ』という話なのかもしれない。
生きていくことそれ自体がある意味ギャンブルに近いのだ。いつ突然足元が崩れるかも分からないし、いつ空から虹が降ってくるかも分からない。だとしたらそこにベットすることに報酬系からの快楽を見出すべきなのかもしれない。
人生に対する見方はいつも定まらないし、ある意味定まってはいけないのだとも考えている。歩む道も歩んだ道もいつも不確かで、それを決めつけてはもうどこにも行けないから。
だからゆっくりと積荷を結んでいくことが、今の私に出来る精一杯だと。この瞬間はそう考えて、無心でこの身を編んでいくのがよいのだと、そう決めつけた。
毎日ほどよく習慣化、なんてものは私にはあまり向いていないのだと思う。生きるにあたって自分の向き不向きというのを理解するのは大切で、とはいえ『向き不向き』の箱に自分を固定しすぎるのも問題だ。塩梅が難しい。結局どこまで突き詰めようとしても『ほどよく』なんて便利ワードに頼らざるをえないタイミングが訪れる。
本質的にはなんでも0か100かじゃないか、とハッキリ白黒世界でものを見ている自分もいる。ほどよく、といったって約50とかじゃなくて63とか49とかその時々の正解の値を選んでいるだけに過ぎないんじゃないかと。ほどよく、というのはその微々たる差を確かに量れるだけの経験を積んだ人だけが出来る高度な技術なんじゃないかと。
今のところは積み重ねていくしかないのだ。白か黒かしかない私の世界で、白と黒を混ぜ続けて一番適した灰色を学んでいくしかないのだと思う。途方もない話だね、と笑えば、人生なんて全部途方もないだろう、なんて返事が帰ってきた。
ほんのりと調子が良いとき、真逆にすごぶる調子が悪いとき。当然人間には体調の揺れというものがあって、やはり季節の変わり目はその振れ幅も大きいなと感じる。
大事なのはそれでも焦らないことなんだろう、と最近思う。何も出来なくても、何か出来そうでも。今の自分というのは生きた時間の分だけの堆積でここに立っているのだと忘れないようにすることなんだろう。意識しないと観念的なものなんてすぐ吹き飛びそうになるから、きっと何度だって思い出さなければいけない。
人は未熟だ。何かを達成するためには無限の時間が必要だ。
だからこそ難しく考えず、とりあえず目の前のことをやるかと、少しずつまた人生を積み重ねていけばいいんじゃないかな。どうか焦らずに。ゆっくり深呼吸をして。
最近宇宙で作業するのにハマっている。バーチャルデスクトップというやつである。まだそんなに操作に慣れている訳でもないので、本当にそれ以外のVR機能をまともに使えていない。
でも宇宙が綺麗なのが悪いと思う。星の中に自分が居るのはとても非現実的で魅入られてしまうのだ。
新しいことを学習するのは難しい。シンプルに脳がそれを拒否しているのが分かる。だからといってやらない、という訳にもいかないから、そんな脳に宇宙を見せてあげている。赤ちゃんのガラガラと同じ要領である。多分。
少しずつでいいから。少しずつで本当は十分立派だから。進めたら、変われたらいいな、とぼんやり思う今日だった。今日はぼんやり生きていこうと思う。天候がめちゃくちゃ過ぎます。(怒り)(急な日記要素)
物事に優先順位を付けていかないといけないなぁ、という贅沢な悩みを今している。とにかくやりたいことが多いし、やりたいことが湧き出てくるというのはとても良いことだ。嬉しい。
嬉しいからこそ困っている。全部本当にやりたいのだ。優劣をつけれないほどに。『本当に大切なこと』なんかに絞れやしないんだ。それはとても嬉しい。
もう開き直って器用貧乏でやっていくのが良いんじゃないか?という気もしている。だとしても、たとえば三日に一回大目標を設けてそれに向けて進行していくのがいいらしい。
物事に優先順位を付けていかないといけない。人生は気力は体力は残念ながら有限で、全てを行えるわけじゃないから。かといって焦るにはあまりにも人生は長いけれど。なんでも塩梅なのだと思う。0か100かしかなかった自分には、それはやはり嬉しい思考だった。
人は変わっていくでしょう。不可抗力でしょう。あの日に戻ることは出来ないでしょう。
されど私には『戻りたいあの日』などはなくて、変わっていくことに未来ばかりを感じてときめいてしまうなぁ。それがいいのか悪いのか。いやはや。
昨日はうにゃうにゃしていた。うにゃうにゃしていたらブログを書き忘れていた。でもうにゃうにゃしていたなりに良い一日だったと思う。よく寝たし、だらだらと自己啓発本を読んだりした。ドレッシングを買いに行って、バズレシピの食材だけ買って帰った。うん。うにゃうにゃしていた。
本心から思ってる。うにゃうにゃした一日だって愛したいなって。出来なくてももがくことが重要なんだろう。
不可能でも、不可能はないと信じることこそが成長に繋がるらしい。成長マインドセットというそうだ。随分困難なことを無責任に言うじゃないか。人生は諦めた方が楽なことがいっぱいあるのに、諦めない方が何かを掴めるなんて構造はどうかしていると常日頃思う。
だから、信じたい、と思う。信じることを諦めてしまっても、信じられるということを信じていたい。今は。
思ってたらブログ毎日更新できるかなって。できたらいいな。2日連続で休んでないからよしとしよう。うん。
人間謎に寝付けない時もある。まあ謎にっていうか運動した後って全然寝付けないのは経験上知っているのだが。かといってお昼に運動すると気持ちよくお昼寝できるから謎である。そして夜は寝付けなくなるのである。夜寝付けないという結果に収束している。
寝付けない夜は焦りが生じて、『有意義なこと』をしたがりになってしまう。ただ寝不足の頭で考える有意義なんて起きてみれば大概無駄も良いところである。
そもそも生きて死ぬまでに大層なことを成した人などあるものか。我々は運命に従うままただ地球に薄い層を貼り続けるために生きているのではないのか。なんて極端な思想になってしまうのも深夜あるあるだろう。考え方としてはどっちもどっちで、ある意味似たりよったりだ。
究極において、個人の幸福と全体への献身は相反する。自らの献身を幸福と定義したところで、結局過剰なまでの献身は火に油を注ぐ行為にしかならぬ時もある。
だから何事も、バランスよく、程よくが良いのだ。だから今日はバランス良く寝不足を謳歌しようと思う。バランス良く無意味なことをしていこうと思う。たとえばこの日記を書いたりとか。
最近すごぶる調子がいい日が多い。夏の暑さから解放されたからだろうか。とにかく調子が良いのでジムに行ったし15分も運動できた。こうなってくると調子が良いというかそういう思い込みが強いと言っても良い。ぶっちゃけ人並みに動けてるかと言われたらそんなことはない。普通に昔からそうだ。
元気でありたいのは山々だが、気持ちだけで元気であれたら苦労はしないのだ。まさに服を買いに行く服がない状態というやつで、私には昔から元気を維持するだけの体力がなかった。それは今この瞬間もだと思う。でもそういう自分でも受容出来るようになってきた。
それは多分、いいことだ。人生の受容出来る部分が増えれば、苦しさも減る。あんまりにも受容すぎるとそれはそれで無味無臭でつまらない気もしてしまうが。まあないものねだりである。ポジティブに考えれば、幼少期のイヤイヤを拗らせていた時期も刺激的だったと解釈出来る。
結局なんでも、ものはいいようなのだ。自分の人生だって『どう言うか』に集約されるところはあるのではないか?
こうやって毎日調子が良い日が続いて、『調子の良い人生だった!』と笑って人生を全うできればそれに越したことはないな、と思う22時半だった。
これはあくまで持論であるが、創作に一番不可欠なものはインプットである。なぜ予防線を張ったか自分でも分からないくらい当たり前だ。
そして、私は新たなる原稿のためにインプットをしなければならない。このインプットの咀嚼量で原稿のクオリティが決定されるといっても過言ではない。理解しているからこそ、すでにインプットするべき資料は用意してある。
問題はそのペースが遅々として終わりの気配を見せないところである。これは半分くらい嘘だ。始められていないのが問題だからだ。
物語を楽しむっていうのは、とても大きな元気が必要であるといつも思う。そして自分にはその元気がいつも不足していると感じている。
昨日私はえらかったのでジムに行ったが、今日はまあ、いかなくてもいいかというぬくぬくした態度をとっている。連続2日休むことだけさければ実質週四になるはずだという理屈で休んでいる。
しかしインプットは 毎日した方がいいと思う 多分 まずい うわああああ あああああああああ
一度途切れた習慣を復活させるのは難しい。まさにこのブログのように。
人間、習慣化させたい行動は週四以上でやるのがよいとされている。なのでジム行くかと気合をいれて外に出たところ、雨だったので踵を返した。しかしここで踏ん張って傘をさして外に出るのが勇気なのかもしれない。こうして日付も変わるあと三分前というところでブログを書いているように。
結局人間、変わりたいならもがくしかない。私には技術も努力も足りないから、ならば努力をするしかない。
あな、難しや、人間。でも私は、人間のそういうところが好きなのだと自覚する部分もある。さあ、傘を持って外に出よう。ビニール越しの雨音はきっと綺麗だよ。
私です。昨日の投稿を忘れました。敗因は何でしょうか。多分投稿時間が不規則すぎることが問題だと思います。もういっそ予約投稿しまくろうかな。それはそれでどうなんだ。
でも一年先までブログ書いてます! って言ったらめっちゃカッコよくないですか? モチベーションのためにもやはりかっこよさは重要か?
未来日記ならぬ未来ブログ、始めちゃおうかな。うーんカッコいい。最高かも。ただ習慣化という点においてはカスかもです。うーん。
まあね。思ったんですけど。そこまで神経質になることもないのかなって。一日忘れたからって何なんだ。きっとその日はブログに書くことに気が回らないくらい色んなことがあったってことでしょう。なら素敵です。そんな記憶ないですけども。
今日の私は、原稿をやるぞ!と思っていたけど思っているだけで時間が過ぎていきました。そういうこともあるわね。そういう日も、慈しんで生きていきたいわね。
これが愛。それも愛。あれも愛。だからこそ、一週間坊主も原稿進まないデーも愛なのだと、私はそう叫びたい。背筋伸ばして生きていきたいよな。な?
天候が悪すぎて本日のブログのことをすっかり忘れるところだった。
こうも気温がめちゃくちゃだと自分の人生についてもめちゃくちゃに考えてしまうところがあり、「すわ!電撃文庫に応募するぞ!」なんていう謎の取り決めをしていた。達成されるかは知らない。プロットはまだない。
努力することが恒常的にできたらいいのにといつも思う。私は努力が苦手だ。何か一つのことに一生懸命取り組むことが苦手だ。そういう人間と創作の食い合わせは正直相当悪いのだと思う。何かを創作できる人はいつだって血の滲むような努力をしてきた人だから。
結局のところ。自分にないものだから惹かれてしまうんだろう。諦めるためにも何事にも打つからないと行けないのだ。今日は雨だというのに外出の予定があって、それも諦めるための用事だ。詳細は書けないけれど。
私は。出来ないことを出来ないと認めるために。人生で努力していかなければいけないんだろう。私は本当の意味で挫折したことがないのだ。だって努力した人だけが挫折できるのだから。ああでも、宣言してできなかったら怖いな、なんてやっぱり挫折以前のことを考えてしまうのだった。
今日から本腰を入れて原稿をやるぞ!やるぞ! といつも思っている。しかしどうにも始めるのが遅くなってしまう。これもいつものことだ。
何かに取り掛かる前の『儀式』を作ると良いという話だったので、一昨日くらいから動き始める前に首を五回横に倒すようにしている。ストレッチにもなるし一石二鳥かなと感じたのだ。
上手く着手できるといいけれど。現状の私といえば逃避にブログを書いているわけで。
原稿を書くのが嫌なわけではない。嫌だったらそもそも書こうとはしないだろう。多分心理的なハードルや負担が自分で把握しているよりもずっと大きいんだろう。創作ってそういうものだ。だからコンスタントに創作物を発表している人はすごいなと思う。完全に自己管理の鬼だ。尊敬する。私といえば年々現実逃避だけが上手くなってしまっている。うーむ。
とはいえ昔の作品と今の作品とを見比べたら、ほんのり今のほうが上達の気色を感じるので、年月の積み重ねを愛していこう。なんて感じた。時間が流れていくことって偉大だ。時間が流れていくので私の姿勢でもいつかは作品に着手し、完成させることができる。そういう過去の積み重ねに安心する思いである。安心ばかりもしてられないけれども。
作業を、するぞ。頑張る、ぞ。
皆がしているタスク管理というものを昨日からゆるゆる始めてみている。記録するってどういう時間軸でも大概めんどいが、歳をとったことでそういっためんどくささにも楽しさを見出せるようになってきたような気がする。
可視化するのはいつも大事だ。もちろん完璧にはいかないけれど、意外と頑張って生きてるんだな、と謎の慈愛の目線を自分に向けることができる。この慈愛は文字に起こさなければ見えてこなかっただろう。
今日も頑張ろう。Todoリストに七つ以上詰めない方がいいらしいぞ、と作ったリストを見ればすでに八個あるし、ここに原稿も足したいのだけど。
可視化すると欲張りさんになってしまうね。謎の全能感が出てしまう。そのうちわけもなく100個くらいTodoに入れるんじゃないだろうか。100個全部やれたら解決かもしれない。そのためにも体力をつけていかねばね。気張らず頑張っていきましょうね。
猫背矯正ベルトを買った。最近Twitter上で姿勢の悪さが取り沙汰されていたし、腰を守るためにも流石にもっと姿勢がいい方が望ましいかと考えたからだ。
しかしまあ、猫背を無理矢理治すので付けてるだけで相当疲れる。その分効いてる感もあったのでそれはよかったけれど。
Todoリストは一日七個までがいいらしい。今日試しに作ってみた。謎に野菜ジュースを飲む項目も入れた。入れる前にすでに飲んでいたので秒でチェックを入れた。ずるっこである。
野菜ジュースの健康効果は諸説あるが、とりあえず自分の体で試してみることとする。毎日野菜ジュースをガバガバ飲むぞ。極端。0か100かしかないのだろうか。
健康になりたいという気持ちが最近は大きい。やっぱり健康な方が原稿もそのほか雑事もできるような気がしたからである。自分の体力のなさと一生付き合っていくつもりでいたが、やっぱり別れたい。揺れる乙女心だ。
結局夢とか希望というものがぼんやりしているからそこら辺のモチベが上がらないので、これからはもうちょっとちゃんと目標を考えて行こうと思う。
今のところ、やはり長期目標も短期目標も真っ白だが。自分の人生を設計するって難しいな、といつも感じているし、それをちゃんとこなそうと努力している人は偉いなと思った。立派。よーっ!
ふにゃふにゃと世界を眺めているうちに九月になった。いつものことである。原稿の進捗はゼロ。これもいつものことである。
正しさって何だろう、私にできることは何だろうと頭を悩ませる瞬間がある。けれど現実に比べて私という存在はちっぽけで、何もなすことは出来ないのだから悩むことはないと開き直る瞬間もある。大事なのはそうやって揺れて歩いていくことそれ自体なのかもしれない。
最近はよく自己啓発系のオーディブルを聴く。そこで頻繁に耳にして驚かされるのは、私たちには脳内の妄想と現実の光景を区別する能力があまりない、という事実だ。
だから脳内で平穏な光景を思い浮かべていれば多少は穏やかでいられるのかもしれない、と仮説を立てて、海辺でぼんやりと過ごす様を妄想した。すると本当に心穏やかになったのだからもはや不気味にすら思えてしまう。
脳内で正しいと思えば、現実でも正しいということに感じられてしまうのだろう。私はそれが恐ろしくてたまらないし、恐ろしがらずとも最初からその通りに生きてきたのだろう。
だから重ねて思うのである。正しさって何だろう。私にできることは何だろうと。
全部余計なことかもな、と思うと同時、誰かの意味になりたいな、と思ってしまうし。もっとそういうエゴに対して素直にあるべき何だろう。その素直さをコントロールするために、己の欲望というのを鮮明に捉えておくべきなのだろう、と改めて思った。
筆の進まない原稿を前に、そう思った。
少しだけ元気になったので多分原稿が書けるだろう、とぼんやり考えている。
ここ数日ぼんやりと調子が悪く、すわ夏バテか?なんて思っていた。けれど「そういえばキューピーコーワヒーリング飲んでなくないか?」と飲んで寝たら元気になった。サプリメント、すごい。
薬の困るところはどうしたってそれを飲んでない自分と正しく比較できないところだ。調子の良い悪いはそりゃ薬と全く関係ないところであるわけで。だからその重要さを可視化できずにサプリメントは飲み忘れがちである。これからどんどんサプリメント飲んでいこうかな。
マルチビタミン、アミノ酸、DHA、鉄……買うだけ買って不定期でしか飲んでないサプリメントの名前をあげればキリがない。結局食事で補助的に栄養を取るのが一番忘れない。
私はカフェモカというチョコとカフェオレを混ぜたやつが大好きなので、カフェオレを作る際にミロを混ぜるようにしている。これで栄養を取ろうという魂胆だ。ただし時々ミロ自体を買うのを忘れるし、カフェオレを飲む気分じゃない日とめちゃくちゃ飲む日で波がある。バランスが悪い。やはりサプリメント、サプリメントが良いのだろう。
健康って難易度が高いな、と毎日苦心しているが。来るイベントのためにも体調は万全にしておくべきである。イベントで倒れましたとかになったら洒落にならない。それにやっぱり体調が良いほうが原稿も進むし。
ああ。体って資本だ。それを体調不良から回復するたびに思い、体調が良い日が続くたびに忘れている。喉元過ぎれば熱さ忘れる。人間それくらいのほうが健全だとは思いつつ、じゃあ健康のための行為を習慣化してくれと自らにクレームを入れる毎日だ。今日はキューピーコーワヒーリング絶対飲むぞ。終わり。